ZENRA

人生はじめてっぽい

2022年4月6日(水)

もうマジで本当に理由なく引くほどしんどい。

 

こないだ友達にチルお泊まりさせてもらってめちゃくちゃよかったんだけど効能は短めだったというか、ホルモンバランスの暴走というか、疲労というか………

情けないとか恥ずかしいとか混乱とかの気持ちでいますぐすべてを投げ出したくなってしまっていたりする。

前回の日記から死ぬほど書くことがある気もするのに、簡潔な言葉でしかかけない。

 

はやく最強になりたい、と思う反面、許してーって思う気持ちもある。

助けてもらいたいような助けてもらったってどうしようもないような気もする。

底抜けに否定的な日々。過去を忘れているだけかも知らないけど、こんなに、底抜けに無気力自暴自棄なのも今までの人生で珍しいというか一番くらいの波かもしれない。

 

…………やっぱりはやくよくなりたい。

2022/03/16(水)

何かを考えていたのに盛大に忘れた。

お風呂の中ではあーこれ書いとこ、とはっきりと思っていたはずなのに。

 

こんなことばっかりだ。

そういえばこのあいだ実家に帰った時にぼくたちはなんだかすべて忘れてしまうねをとてこようと思っていたのにそれこそすっかり忘れて帰ってきた。

 

仕方ないから最近のことを書くと、まったく勉強できなくなってしまった。新しい現場にはいり、新しいことを山ほど覚えたり誰がパワーがあるのかとかをリモートで推測しているとそれだけで気が狂いそうだ。だから他の時間はほとんど屍。

Netflixクィア・アイのドイツ編を全てみた。前半4話を見ていた時は結構酔っていて、素晴らしさに毎話号泣しながら見ていたけど、最終話も素面で号泣だった。

シンプルに自分が弱っているし、ドイツのファブ5は柔らかく優しい。自浄のようなものを大切にしていそうだし、それぞれの喜んでもらえるかな、助けになるかな、みたいな少し不安みたいな気持ちも伺いみれる感じが、静かにドラマチックだった。5話少なすぎん?クォリティこれで量産は絶対難しいだろうけど、地道にまだまだ続編を撮り続けてほしい。

ドイツの文化というか、国民性にも少し興味が湧いてきた。言葉はわかる気がしないけど。

 

書いていたら思い出してきた。

人が、何が楽しいかということ、なんかたとえばファブ5に選ばれる人たちは、人を助けることが喜びになる(そうであってくれと思う)だとか、各人でそういうことって全然違うのだよな、ということを考えていた。

たとえば、MBTIとかを受けるのが好きなのだけど、私は割と本気で20過ぎても人間って本質的にそうは変わらないと思っていた。

けど、マジで最近、もしかして人っていろんな種類がいるですか?という気づき。

大学を卒業する頃には、人って多面的だなーっていうのが気付きだったのだけど、最近になって、もしや人ってそれぞれ何が嬉しいか何が辛いかが違うっぽいぞ、ということがわかってきた。

すごくない?何?

 

そして結局私は全く人の役に立つことが嬉しいとか思わないっぽい。普通に人と関わるのめちゃくちゃ疲れる。どんなに素のコミュニケーションだったとしても。

 

なんかあと辛過ぎて西洋占星術とかちらっと見てたのが、この気付きに至る助けだったっぽい。たとえば、出生時の月との関係性で悩みが違うだとか。私は新月生まれなのでスパッとした考えや行動や発言とかも一致するタイプみたいだけど、他のタイプみてると全然そんなことないっぽい人もいるっぽい。まじで驚き。

意外と人に説教しちゃう人ってこういうことあんまりピンときてないのかもしれないな。私も新年にはそういう無駄に口出ししてしまうことに対して負い目を感じていたのだけど。

まじでいろんな人がいるぜ世の中〜って感想で終わりでいい気がしてきた。

てかそう思うとまじで他人、興味な〜〜〜というのは加速してしまうんですが…。

 

まあそんくらいで良い気がする。いままでが他人と自分との相対性というか、影響や見え方を気にし過ぎ過ぎも過ぎくらいの感じだったから別にテキトーな気持ちでいいのかもしれない。自分の思いは自分だけで表現すればよいような。

 

考えてれば色々気付きがある。大変だ。

2022/03/05(土)

とにかく体調が悪い。頭がガンガン痛くて、家事やら何やら一つ一つの動作のあとに結構な休憩が必要。

昨日酒飲んで湯船に浸かってのぼせた上に夜更かししたから?まじでしんどすぎる。

夢をかなりみたし。夢がすごい活発だったからかなり酔いが回っていたんだなと思う。

酔いが回ると脳がバグっていろんな記憶を急に取り出してくるし、かなり鮮明で現実みたいに思える。素面で寝ると意外とやや明晰夢みたいに感じになる。

 

頭の中の移り変わりを残しておきたいのに、最近なんだか落ち着かなくてうまく書き出せていない。直近でハッとしたのは実はあんまり全然人に何か自分のこと伝えたくないのかな、と思ったりした。

親類たちは、勝手に子供たちのことを考えたりジャッジしたりして急に説教してきたりするのでなんとなくやってるとかそういうことを主張しておかないといけなかったような気がする。負けないために布石をうっとかないといけない、という意識のことを考えたりしていた。

あと小学校のときにうまく人と話せないな、と思った時に、もしかしてうまく人の記憶に残らないことは存在しないことと同じなのではないか、ということを考えていたりしたときのこともあるかもしれない。あと、主張しないでオープンでいないと人とうまく交流できないんでは、できないんではというかうまく人と交流するためにオープンでいるべき、と思っていたような気がする。

なんかそれが癖づいているのか、人に何か伝えられていないと焦ってしまってい多様な気がするけど、このコロナ禍で。

でもそもそも結局、そんなに人に何か伝えたいことあるか?と思った。脅かされることはないのだよ、と自分で思った時に、じゃあ別に誰に伝えたいこともないな、と思った。別に自分が楽しいことや知識欲を満たせていれば満足なので。

このブログはそういう思考の遷移を忘れたときのためのメモ書きだけど。

あくまで、今のところ自分的には人間は群れでうまくやっていっていないと生きられないという根本的な生存の本能はあると思っているのだけど、だからあくまで、誰に何を言われても怖くない、ということは全然なくて、他者に排除されるような否定されるようなことを言われると思うし、それは引き続きストレスなのだと思うのだけど。

 

でもやっぱり、自分が何か、人に話す時に根本的にあったのはそういう守備的な側面と、周囲の人に知ってもらわないといけない、という基準だったような。それではない会話をしたいな、と思った。そうすると本当に対話ってなんだろうなって思う。

自分が人に聞いてほしいことや今気持ちが昂っていることをひたすら話すのではない方法で、人と話すことを通じて行う交流とは…

 

何か良い本がないか探したい。